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新着情報

ニュースレター「ひとりから、長崎から」第17号(2025.9.30)を配信しました

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編集室水平線のニュースレター「ひとりから、長崎から」第17号(2025.9.30)
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こんにちは。編集室水平線の西浩孝です。
ニュースレター「ひとりから、長崎から」第17号をお届けします。

伊藤明彦『未来からの遺言』(水平線刊)が原案のNHK戦後80年ドラマ『八
月の声を運ぶ男』(8月13日放送)、ご覧になられたでしょうか? わたしは
計3回も観てしまいました。

伊藤明彦さんと交流があった方々に聞くと、みなさん、本木雅弘さん演じる主
人公・辻原保(伊藤さんがモデル)の雰囲気が「伊藤さんにそっくりだった」
とおっしゃっていました。話し方や、ちょっとハスキーな声も似ていたそうです。

見逃した方、NHKオンデマンドなら視聴できますよ。
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2025149569SA000/

というわけで、本号もよろしくお願いいたします。

(このレターは、PCで読まれることを想定しているので、スマートフォンでは
読みにくいかもしれません。あらかじめご了承ください。)

(↑これと↓これ、毎回書いていて恐縮ですが、新しく登録していただいた方
のためにそうしています。以前から読んでくださっている方には恐縮です。)

 *****

ニュースレターの内容紹介です。

「新着情報」では、文字どおり、水平線および水平線の刊行物に関する最新の
情報をお知らせします。

「作業日誌+α」は、ニュースレターが隔月配信なので、その2か月のあいだ
にメモした記録を掲載します。「+α」とあるのは、編集作業とは関係のない
記述も含まれているためです。

「海岸線」は、編集人(わたし)による書きものです。そのときに書きたいこ
とを自由に書いていきます。今回のタイトルは「苦しまぎれ」。

「本棚の本」では、水平線(わたし)の本棚にある本を紹介します。

「『雨晴』から」は、オンラインマガジン『雨晴』(suiheisen2017.com)のなか
から、公開済みのひとつを選んで、一部または全部を掲載するものです。今回
は、諸屋超子さんの連載『くたばれ』の第17回「色如し質(イロゴトシタチ)」
です。

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それではどうぞご覧ください。

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【新着情報】というか、今回は既刊本のご紹介 など
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被爆80年のこの夏、被爆者1000人の声を録音し記録した元長崎放送記者・伊
藤明彦さん(1936-2009)の著書『未来からの遺言 ある被爆者体験の伝記』が、
各メディアでたくさん取り上げられました。

その効果だと思うのですが、ニュースレターの登録者が一気にふえたので、こ
こで水平線の既刊本をご紹介します。気になるものがありましたら、ぜひ手に
取ってください。当サイトでは目次・著者略歴を掲載しているほか、本文も公
開していますので、ご参考に。

●木村哲也『来者の群像 大江満雄とハンセン病療養所の詩人たち』
1953年、「らい予防法闘争」のさなかに刊行された全国のハンセン病療養所入
所者の合同詩集『いのちの芽』。本書をきっかけに始まった詩人・大江満雄
(1906-1991)と彼らとの交流は、約40年に及ぶものだった。「生きるとは、
年をとることじゃない。いのちを燃やすことや」──大江によって「来るべき
者」と呼ばれた詩人たちが語る、知られざる戦後史、文学史、社会運動史。
https://suiheisen2017.jp/product/713/

●藤井貞和『非戦へ 物語平和論』
「戦争の原因とその回避とについて、人類史的な深い問いかけへ考え進めるよ
うにと、だれかが用意してくれた戦後70年という、日本歴史のすきまではな
かったか。第一次大戦後では、世界的に不戦条約(戦争放棄)が構想されても、
日本国はそれをおのれに利するように計らったのであり、日中、太平洋戦争下
にあっては、戦争にあけくれこそすれ、『戦争とは、非戦とは』という問いか
ら最も遠い時代としてあった」──1942年生まれの著者が力を尽くして記した
戦争論。解説=桑原茂夫。
https://suiheisen2017.jp/product/566/

●藤井貞和『増補新版 言葉と戦争』
第8回日本詩人クラブ詩界賞受賞作の増補新版。“人間性”はけっして暴力を先
立てることになく、何らかの人間的努力により、暴力による解決を乗り越え、
あるいは攻撃の回避をもくろみ実現しようとする、強い思想のうちにあるので
なければならないのではないか。非人間性という語を対極に置くためには、人
間性を確立させなければならないのではないか──。戦争の起源と現在とを追
究し、今後われわれが何をしなければならないかを問う。
https://suiheisen2017.jp/product/707/

●大谷良太『方向性詩篇』
第5詩集。西脇順三郎賞、小野十三郎賞、小熊秀雄賞、最終候補。2017年から
2022年までの作品25篇を収める。栞=中尾太一、駒ヶ嶺朋乎。『現代詩手帖』
2023年12月号「アンケート・今年度の収穫」=有働薫、河津聖恵、田中俊廣、
田野倉康一、宗近真一郎、森本孝徳、山田亮太。
https://suiheisen2017.jp/product/708/

●『遠い声がする 渋谷直人評論集』
戦後に抱え込んだ自己の崩壊感覚に立脚し、大江満雄、金井直、島尾敏雄らの
作品から、時とともに置き去りにされかねない思想をひとつひとつ拾い上げる。
実存をかけて読み、思考する著者の文学批評集成。在庫僅少。
https://suiheisen2017.jp/product/710/

●『夕暮れの走者 渋谷直人詩文集』
前作『遠い声がする 渋谷直人評論集』と対をなす一冊。1956年と62年の未
発表原稿、2020年の書き下ろし、その他1960年代から90年代まで書き継がれ
た詩・小説・散文、全21篇。〈人生は“受難”(パッション)に過ぎないのか〉。
実存をかけた全身の問いが、ここにある。在庫僅少。
https://suiheisen2017.jp/product/559/

 *****

オンラインマガジン『雨晴』を、ぼつぼつ更新しています。
この間に公開したのは、以下のとおりです。

●しろくま『銀世界』
第10回「善悪」
https://suiheisen2017.com/shirokuma/3578/
●姜湖宙『ストライク・ジャム』
第17回「空を仰ぐ」
https://suiheisen2017.com/kang-hoju/3583/
●諸屋超子『くたばれ』
第17回「色如し質(イロゴトシタチ)」
https://suiheisen2017.com/moroya-choko/3591/

オンラインマガジン『雨晴』は、アプリ「編集室 水平線」内で公開しています。
以下のページから、お手持ちのスマートフォンやタブレットに、インストール
をお願いします。
https://suiheisen2017.jp/appli/

『雨晴』はsuiheisen2017.comでも読むことができますが、アプリを入れると、
毎回プッシュ通知で更新情報が届きますので、こちらを推奨しております。

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【作業日誌+α】2025年8月〜2025年9月
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●8月6日(水)
広島原爆の日。県知事の挨拶。「諦めるな。押し続けろ。進み続けろ。光が見
えるだろう。そこに向かって這っていけ」(2017年12月、ノーベル平和賞授
賞式でのサーロー節子のスピーチを引用)。午後1時、NHK福岡放送局の取材
(小林将純さん)。爆心地公園→仕事場→追悼平和祈念館。そのまま残って、
明日から始まる「ジャーナリスト伊藤明彦 特別展」の準備を見守る。ペラの
紙をそのまま壁に貼っていてとんでもなくチープな感じだが、はたしてこれで
いいのだろうか。帰り、遅くなる。

●8月7日(木)
朝、祈念館のTさんからメール。ハレパネにしてチープさを改善したと展示風
景の写真を送ってくれる。ちょっと安心。午後2時、熊本日日新聞・前田晃志
記者。仕事場→平和公園→ひとやすみ書店。湿気がすごくて、めがねが曇る。
午後6時すぎ、浜口町の路地にある居酒屋。関口達夫さん、高瀬毅さんの飲み
会に交ぜてもらう。伊藤明彦さんについてナイショの話を聞けそうだったので、
ボイスレコーダーで録音。生々しい女好きエピソード等々、3時間超。

●8月8日(金)
午前11時、長崎県美術館のカフェで小林エリカさん。初対面。『トリニティ、
トリニティ、トリニティ』(集英社、2019)にサインをしてもらう。うれしい。
爆心地にあるラブホテルについて話す。12時半、長崎駅改札前。北海道新聞・
関口裕士記者。シアトルズベストコーヒーに入る。ここの飲み物はでかい。お
得感。取材終了後、メトロ書店に偵察に行く。『伊藤明彦の仕事1』、残り2冊。
その隣に岩波現代文庫版『未来からの遺言』。つらい。何も買わずに帰宅。

●8月9日(土)
長崎原爆の日。平和祈念式典の中継をテレビ(NCC)で観る。解説は山口響さ
ん。福山雅治の「クスノキ」を城山小学校と山里小学校の児童が合唱。感動し
た。午後4時、出島町のカフェ「Gioia」。初めて来た。被爆建造物らしい。テ
レビ朝日『大下容子ワイド!スクランブル』の収録。増田ユリヤさんを相手に
話す。全国放送。池上彰とおなじ画面に映るとは。沖縄県警が7日、キャンプ・
シュワブのフェンスの一部を壊したとして、作家・目取真俊さんの自宅を家宅
捜索。パソコンやスマホ、カメラ、Wi-Fiのルーターなどを押収した。辺野古新
基地建設に対する抗議活動への露骨な弾圧。

●8月10日(土)
午後1時、長崎県被爆者手帳友の会/ヒバクシャ・コミュニティ・センター。
“戦後10年ズ”トークショー。渡辺えりさん、山崎ハコさん、高瀬毅さん。続け
て原田小鈴さんと高瀬さんのブックトーク「ヒバクシャ家族が語る これからの
継承」。『「キノコ雲」の上と下の物語 孫たちの葛藤と軌跡』(朝日新聞出
版、2025)を買う。久しぶりにお会いしたHさんと「焼鳥 平次」。

●8月13日(水)
夜10時、NHK戦後80年ドラマ『八月の声を運ぶ男』放送(作:池端俊策、
音楽:清水靖晃、演出:柴田岳志)。冒頭、伊藤明彦さんがモデルの辻原保
(本木雅弘)が出て、実際の被爆者の声が流れた時点ですでに泣けた。WOW
OWのプロデューサー松本太一さん(34歳)の情熱、実力。映画にもしてほ
しい。

●8月18日(月)
『伊藤明彦の仕事1』の増刷を決めたので、奥付と他にいくつか赤字を入れる。
design POOLの北里さんに送付。BSで『ゴジラ』(監督:本多猪四郎、1954)
をやっていたので観ていたが、途中で電話が入ったりなんだり。午後3時前、
NBCの取材(古川恵子さん)。仕事場でインタビューを受ける。オンラインマ
ガジンの更新をしようと思っていたが、できなかった。疲れたのでアイスを食
べた。

●8月23日(土)
さいきん頻繁に夢を見る。今日は大谷翔平の代わりに「1番・指名打者」でス
タメン。夕方、浜町のサンマルクカフェに入ったら、店員の名札がイニシャル
になっていた。カスハラ対策。実際に見たのは初めて。夜、YouTubeで「ポー
ル牧師匠の指パッチン100回何秒かかるのか!?お笑いウルトラクイズ」。笑
いすぎて腹が痛い。ちなみに36.2秒だった。

●8月24日(日)
8時45分、追悼平和祈念館。東京からいらした伊藤公彦さん、息子さん、難波
稔典さんと館長らに挨拶。歓談。「伊藤明彦 特別展」を見学。長崎ケーブル
メディアの取材を受ける。昼食はみんなで寶來軒。たまにはと選んだ皿うどん
がおいしい。午後1時半、〈被爆×講談「ナゾの被爆者 被爆太郎の物語」~
講談師・神田伊織~〉(原爆資料館ホール)。第二部のトークセッションに、
青来有一さん、関口達夫さんと一緒に登壇。夜、イベント会社社長のM氏。丸
山町の「史跡料亭 花月」にお呼ばれする。卓袱料理。値段は聞けない。初めて
のタクシー券でタクシーで帰った。

●8月27日(水)
午前、気力なし。昼前にやっと起き上がる。午後、メールの返信と発送作業を
なんとか。18時半、富山シティエフエムの番組「虹のラジオ」をサイマル放送
で聴く。自分の声。30分。リクエストした曲は、水曜日のカンパネラ「エジソ
ン」。ジョゼ・サラマーゴの『白の闇』(雨沢泰訳、河出文庫、2020/初版は
NHK出版、2001)を読み終えた。突然の失明が巻き起こす未曾有の事態。「ミ
ルク色の海」が感染し、善意と悪意の間で人間の価値が試される──。傑作だっ
た。

●9月2日(火)
ブランデー戦記「赤いワインに涙が・・・」。最近こればっかり聴いている。
西日本新聞、Tシャツをめぐる沼田真佑さんのエッセイがおもしろい。ハガキ
にて自費出版の問い合わせあり。申し訳ないが、お断りの電話をした。「泣き
そう…」と言われる。つらい。西尾漠さんの『極私的原子力用語辞典』の原稿
整理を進める。

●9月5日(金)
仕事、本気出す。紀田順一郎氏の訃報(90歳)をうけ、思わず何冊かの古本を
注文。この人と荒俣宏は本当にすごい。「ナンシー関消しゴムハンコ3Dデジタ
ルアーカイブ実行委員会」からメッセージ。スキャン約500点が完了とのこと。
Fさんから電話。19時半〜21時、『どこかの遠い友に 船城稔美詩集』(柏書房)
刊行記念トークイベント、木村哲也+小沼理「境界線など引きようがない世界へ」
(twililight)を配信で。小沼さんは富山県出身で同郷。10歳下。話が良かったの
で、積読の『共感と距離感の練習』(柏書房、2024)を読もうと思った。

●9月10日(水)
午前、JRCから発注のあった『来者の群像』を梱包・発送。何件か振り込み。
27日(土)の長崎外国語大学公開講座の資料を作成。早めの昼食(ビビンバ炒
飯)。ちょっと寝た。午後、『極私的原子力用語辞典』の原稿整理。終わりそ
うで終わらない。18時半、富山シティエフエムの番組「虹のラジオ」後編。東
京都写真美術館「総合開館30周年記念 ペドロ・コスタ インナーヴィジョ
ンズ」に行きたいが行けないので、図録だけ頼む。

●9月19日(金)
ある人から、辺見庸さんのブログに西のことが書いてあったと教えてもらい、
覗いてみた。私が載った熊本日日新聞の記事を読んで、「好漢西浩孝さんの健
在は朗報中の朗報だった」(8月28日付)。うれしくなりメールをお送りしよ
うかと思ったが、やめておいた。お互いのために。ブックオフで買った漫画『本
は売るほど』(1・2巻、児島青、KADOKAWA、ハルタコミックス、2025)を
読んで泣く。

●9月22日(月)
車で病院へ。待合席のとなりの人。大きなバッグを抱えて看護師と会話。これ
から入院するらしい。付き添いはたぶんお母さん。外で昼を食べる。男の大学
生2人。Uberの時給の高さについて話している。ちくしょう、おれよりだいぶ
稼いでいる。松本祐貴『ルポ失踪 逃げた人間はどのような人生を送っている
のか?』(星海社新書、2025)。むかし交番のポスターを見たときに自分も企
画化しようとしたが、書き手を見つけられず断念した。

●9月27日(土)
昼、そうめんを食べてから長崎市立図書館へ。長崎外国語大学公開講座「被爆
者1000人の声を記録、ジャーナリスト伊藤明彦が遺したもの─シリーズ『伊藤
明彦の仕事』(全6巻)刊行をめぐって─」。待遇がすごい。「先生、」など
と言われてとまどう。50名ほどの前で1時間ちょっと話した。自分が詐欺師の
ように思われ、自己嫌悪に陥る。帰り、FMでリリー・フランキーの「スナック
ラジオ」を聴く。この番組、ほんと好き。ほとんど下ネタ。

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【海岸線-15】苦しまぎれ
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書くことがない。こんなときは俳句の出番である。
わたしの好きな池田澄子。

「いつしか人に生まれていたわ アナタも?」

谷川俊太郎はこの句についてこう述べている。

「自分の外にある事物と自己の内面とを呼応させるのが俳句の伝統であるとす
れば、この句はそれから逸脱しているとも見えるだろう。季語もなく、五七五
の定型も守られていない。自分の外にあるものは、ここでは二人称で呼びかけ
られる一個の他人のみであり、それも意図的に片仮名で表記されることで、あ
る抽象性と軽みを帯びている。だが『アナタも?』という呼びかけには、『い
たわ』という女言葉と相俟って、ユーモラスな挨拶の気分も含まれている。俳
諧のいささか異色な発句としてこの句を読むことも出来ないではない」

なるほどね。
さて。

「瞬いてもうどの蝶かわからない」

「青い薔薇あげましょ絶望はご自由に」

「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」

「生きるのが大好き冬のはじめが春に似て」

「冬の虹あなたを好きなひとが好き」

「ピーマン切って中を明るくしてあげた」

いずれも『空の庭』(人間の科学社、1988年)。このとき澄子50歳。

ああ、こんなに紹介してしまった。宝物は内緒にしておきたい自分なのに。

「内緒」って良くないですか? 人間、秘密がなくちゃ。

みなさん、他の人には教えないように。

(おわり)

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【本棚の本】小川てつオ『ホームレス文化』ほか
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●小川てつオ『ホームレス文化』キョートット出版、2025年

●重永瞬『Y字路はなぜ生まれるのか?』晶文社、2024年

●西條辰義『フューチャー・デザイン』日本経済新聞出版、2024年

●鈴木美紀子『風のアンダースタディ』書肆侃侃房、2016年

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【『雨晴』から】
諸屋超子『くたばれ』
第17回「色如し質(イロゴトシタチ)」
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断捨離、ミニマリスト、シンプルな暮らし。人々は限られた自分の領域である
自宅や自室を最大限に活かそうとして空間を整頓する。私のように散らかった
空間をアイデアの源に考えごとをするのはいわゆる少数派らしく、すっきりと
した空間は多くの人に落ち着いた心を与えてくれるらしい。

すっきりとした棚、すっきりとしたテーブル、すっきりとしたキッチン。すっ
きりとして落ち着いた環境に慣れた人間は、果たして、すっきりとしない人生
というものに向き合っていけるのだろうか?

池上桃花は最近、仲良しのネイリストゆりちゃんに誘われてあるセミナーを訪
れた。「コミュニケーション能力開発講座」は意識の高い人々の間では既に話
題沸騰中のオンラインサロン「classification」主宰・陽風愛菜(はるかぜあいな)
がホテルの会議室を借りて開催した対面講座だった。

ゆりちゃんは、桃花の爪の形を整えながら興奮気味に話した。

「本当に今度の講座はレアですよ! レア! こんな街まで陽風先生が来るなん
て初めてだし、受講料はたったの3千円だし。こんなチャンス滅多にないです」

ゆりちゃんは桃花のネイルをもう3年も担当している小さなサロンの店長で、
恋人と3年前に「別れの危機」を迎えていたのに、陽風の講座を受けたおかげ
で危機を脱したのみならず、サロンオープンの出資まで恋人が申し出たという
のだ。

「でね、はじめての知人以外のお客様が桃花さんで、あたし、桃花さんが彼氏
とのことで悩んでるって聞いたとき、これはぜーったいお告げだ! 講座に桃花
さんを誘わなきゃって思ったんです」

ゆりちゃんによると、ゆりちゃんの恋人はフューシャピンクの男性だからネオ
ンイエローの女性に惹かれがちなんだけど、真実の愛はスプリンググリーンの
女性つまり、ゆりちゃんとだけ見つけられるらしいのだ。

「これは占いじゃなくて統計学を基に陽風先生が独自に研究を重ねて生み出し
たもので、各カラータイプごとに詳しいコミュニケーションセオリーと事例研
究の載っている教材も用意されているんです。でもそれは、それこそすごーく
分厚い辞典みたいなもので、値段も高いし、読むのも大変だから陽風先生が個
別相談を30分5千円でやってくれるんです。何回でもこの値段でいいんです
よ? 陽風先生ってほんと商売っけがないんだから」

桃花は、智則の昨夜の様子を思い出す。

「結婚はしてもいいけど子供は欲しくない」

と言った智則に桃花はこの1ヶ月コツコツと子供を持つことの喜び、安心、幸
せについて伝えてきた。しかし、日に日に智則は不機嫌になり、ついに昨夜は
可愛い子供たちがダンスしているCMを見ていまいましげにテレビを消した。

「子供が嫌いなのは、智則が人間的に未熟だからじゃない?」

ついカッとなって言った桃花を智則は冷たく言い放った。

「子供が好きか嫌いかと、子供を持ちたいかは別だし、桃花が子供のいる結婚
生活を望むのであれば、結婚は僕じゃない他の人と考えてくれ」

桃花は頭が真っ白になり、目の前の景色は色味を失い暗く沈んだ。

「それって私を好きじゃないってこと?」

血の気の引いて強張った唇をなんとか動かして言った桃花を智則は呆れた顔で
見つめた。

「なんでそうなるんだよ? 好きかどうかと人生の計画が同じかどうかは別のこ
とだろう? なんでそうごちゃついてんだよ、おまえは」

桃花には智則が自分を都合よく扱おうとしているようにしか思えなかった。智
則はとりあえず社会的信頼を得るために桃花と結婚して、いつの日か他にいい
人が見つかったらそっちに乗り換える。そのときにはもちろん当たり前に子供
を持つ。男には妊娠出産のリミットなんて関係ないんだから。男は年取った美
人より若いブスのほうが好きだって決まってるんだし。

「えー? でもそうかなぁ? 桃花さんの彼氏さんモスグリーンっぽいから違う
言い方をすればわかってくれそうですけど」

それからゆりちゃんは、桃花に基本の12色の話と、さらにユニークなプラス
12色の話をして聞かせた。

桃花はなぜかすうっと気持ちが落ち着いてくのを感じた。昨夜は眠れずに寝不
足のまま会社に行ったが仕事に集中できず、本日の業務はコーヒーを飲み続け
ることのみとして退勤時間を迎えた。会社からネイルサロンまでの道のりも足
取りは重く、こんな気分のままネイルをするのは勿体無いななどと思いながら、
今月のおすすめデザインリストを眺めた。ところが今はどうだろう? 桃花の
心は羽よりも軽く、部屋は明かりが増えたかのように明るく見える。

「桃花さんは情の深いネイビータイプだから、少しやり方変えればいいかも」

チラッと見せてもらった色分類表はとてもすっきりまとまっていて、なんだか
ワクワクしてきた。これに従うだけなら私にもできるかも。今はそう「ごちゃ
ついている」から。

桃花は昨夜、智則に言われた言葉を思い出し胸に鈍い痛みを感じ、それを向こ
うに押しやるように両手を伸ばして完成したネイルを眺めた。

整頓の誘惑は私たち人間をさまざまな場所に連れていく。自分が何者かわから
なくなった者は何の入会届にでも躊躇わずに自分の名前を記入する。賢く思わ
れたい者はついさっきまで存在も知らなかったゲノム編集の是非についてのア
ンケートに1から13まで余さず回答する。他人から敬意を抱かれたい者はボー
ナスが出たらアウトレットモールに行く習慣を改めて百貨店へ足を運ぼうと胸
に誓う。

混乱した桃花が聞くだに胡散臭いセミナーにわざわざ足を運んだとしても誰も
驚かないだろう。少なくとも私は驚かない。ありきたりな彼女の健気な抵抗じゃ
ないか。

「桃花さん、失礼ですが彼のご親戚に〇〇県出身の方は?」

桃花はセミナーの後、特別価格3千円で30分間の陽風による個別相談を受け
ていた。

「え? ええいます。叔父さんが〇〇県に住んでいるって」
「やはり。それから彼の出身大学は?」
「一応A大学です。一年留年したらしいですけど」

陽風は一人で何度も強く頷きながら、手元に置いた薔薇の飾りに縁取られた携
帯用ホワイトボードに何やら書き込んでいく。

「いいですか? あなたの恋人はモスグリーンに見えますが、その根にオクタゴ
ンが2つもあるんです。〇〇県は江戸時代に何某海岸から▲▲人が入り込み棲
みつきました。オクタゴンです。▲▲人は伝統的にオクタゴンなのです。A大
学の創設者の滝沢は、▲▲へ政府の命令によって5年ほど赴任していました。
もちろん彼の持ち帰ったオクタゴンは未だにA大学の教育方針に強く影響を与
えています」

桃花はオクタゴンを2つ持った智則がDNAに刻み込まれた愛国心の影響でオ
クタゴンをこの国にばら撒いてしまわないか警戒しているという説明を必死で
メモを取りながら聞いていた。

「でも、それってどうしようもないってことですよね?」

DNAにはかないっこないと桃花は肩を落とす。

「いいえ、あなたがサークルを3つも持っているので大丈夫です」

陽風からサークルを3つも持つネイビーは純粋なこの国の民族だと聞き桃花は
驚いたが悪い気はしなかった。知らぬ間に自分が純潔であったことの優越性は
彼女の心を優しくあたためた。これまでの混沌とした悩みがその希少性という
理解されづらさにあったのだとすっきりした。

私は桃花が陽風のアドバイスに従って智則のオクタゴンを刺激せず、サークル
で包み込んでいく方法の小冊子を3千3百円で購入するところまでは見ていら
れずにたまらず立ち上がり、乱雑な机から適当に手に取った雑誌をパラパラと
めくる。

整頓は、人間の原始的な欲求なのかもしれない。未知のものに怯え、カテゴラ
イズし、優劣をつけ、白黒つける。そうして手に入れた安らぎに深く深く座り
込み、ゆったりと手足を伸ばしたいという欲求。

複雑で予測のつかないものは、パンドラの箱にしまっておくべきだ。希望なん
て押し潰して窒息させてしまえ。不確かな幸せより、見慣れた不幸の方がずっ
と愛らしい。

そうやって我々の先祖は我々同様混沌を箱や押し入れ、倉庫や引き出しに詰め
込めるだけ詰め込んで、床に大の字で寝そべり、猫なんか撫でながら安心して
ここまで発展してきたのだ。

知的なあなたも私の書くような、こんなややこしくて意味不明な文章を読むよ
り、クロスワードでも解いていた方がずっと楽しいでしょう?

人間はおしなべて整頓の欲に突き動かされているのだから。

(おわり)

……………………………………………………………………………………………

お読みいただき、どうもありがとうございました。

よろしければ、友人・知人のみなさまに、このニュースレターの存在を知らせ
ていただけましたら幸いです。

編集室 水平線(発行人=西 浩孝)
〒852-8065 長崎県長崎市横尾1丁目7-19
Website: https://suiheisen2017.jp/

……………………………………………………………………………………………

●アプリ「編集室 水平線」
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第14号 https://suiheisen2017.jp/update/4021/
第15号 https://suiheisen2017.jp/update/4074/
第16号 https://suiheisen2017.jp/update/4184/